あとがき
アンナ・シャーマン
『茶の本』を最初に読んだのは、屑籠から手稿を拾い出した人だった。著者岡倉覚三はボストン美術館の後援者を対象にした日本の美意識についての連続講演用にこれを書き、講演がすむと捨ててしまったのだ。『茶の本』はひとえに偶然のおかげで存在し、それが今日まで読み継がれてきた事実は本書の核となる思想を体現している。“美は見る者が見つけ出すように隠しておけ。”“理性は理性に語りかける。”“完璧なるものはどこにでも存在する、我々が心を決めてそれを認識するなら。”
岡倉覚三は1863年、横浜に生まれた。徳川幕府がここを外交通商を許可された港に指定してから、わずか4年後である。ごく早いうちに日本旅行案内書を著したイギリスの外交官アーネスト・サトウは横浜をかなり軽蔑して、「つまらない漁村、湿地に囲まれた細長い土地に小屋が数軒建っているだけ」と描写した。岡倉の幼年時代、横浜はミシシッピ湾に面していた。1854年に合衆国海軍が本州の海岸に沿って、現在の東京より南のおもな地点にアメリカの名前をつけたからだ。ヴァンデイリア。ロック・アイランド。サウサンプトン。ペリー・アイランド。サスクワハナ湾。ミシシッピ湾。トリーティ・ポイント。ケープ・ダイアモンド。プリマス・ロック。
町と少年はともに成長していった。横浜は分割された。商業の行なわれる居留地。海に面した埠頭地区。ヨーロッパからの移住者が住み、よほどの紹介状がなければ部外者は訪れることのできない岬地区。中国人街。そしていくつかぱらぱらと日本人の住む地域がある。ある旅行者は、日本の家は「小さい平屋、木造で、正面は一日中取り外されており、日当たりの良い日は濃紺のカーテンで覆われる」と書いた。岡倉の父はそんな家で生糸を扱う商店を営み、岡倉はそこで生まれた。名前は「角蔵」、「角の蔵」である。大人になってから彼は名前の漢字を変え、「覚三」、すなわち「覚りを得た者」とした。1890年代以降は、手紙や詩などに「天心」、つまり「天の中心」と署名することもあった。だが、もともとの名前の漢字には彼の生家が新興の商店だった事実がしるされている。
1880年代ごろには、横浜は領事館やホテルや銀行のある本物の都市になっていた。イギリス人の学者で旅行者であったダグラス・スレイデンは、船会社代理店、教会、クラブ、競馬場などを描写し、芝居小屋の看板絵には「いちめんに船ほどの大きさの竜がいくつも火を吐き、女たちはステーキのごとく切り裂かれ、危機一髪で逃れる場面の数々が……虹の七色すべてを使って描かれている」と書いた。イギリス人はクリケット競技場を持ち、内外の事件を記録する新聞もあった。横浜では手品や道化芝居が見られ、また早くからたくさんの骨董屋が真鍮の鉢や銘板、パイプ入れ、金属のインク壺、銅製の鏡などを並べていた。売り物の見事な絵画は「生き生きと色彩ゆたか」だが、「日本人はばかなことに遠近法をまるで無視している」のが残念だとスレイデンは付け加えた。
合衆国から来る人々のほとんどはまず横浜に着き、そこから東京や京都へ向かった。横浜の商店はこういった外国人客を相手に、写真、瀬戸物、籠、絹の衣類、帽子などを売った。横浜美術展示場は誰もが訪れる場所のひとつで、銅製の巨大なコウノトリ像が門の両脇をかためていた。日本が二百五十年近い鎖国を終えると、窮乏した武士の家々は家宝を「二束三文で」手離した。美術展示場はこうして日本の傑作芸術品――漆塗りの仏壇、透かし彫りの欄間板、彫像、陶器、貴重な刀剣――を裕福な旅行者に売り払ったのである。
岡倉はグローバル化した世界の最初の市民の一人であり、日本文化という千年に及ぶ宝物を金に換える場所をゆりかごとして育ったのだった。
少年のころ、岡倉はアメリカ人宣教師の英語塾に通い、きれいな英語を話すことを教わった(あるいは自力で身につけたのかもしれない)が、昔ながらの寺子屋にも通って、孔子の『論語』を習った。東京帝国大学に入ると、ここでも西洋文学と漢学を学んだ。ヴィクトル・ユゴーと並んで唐詩、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』、ヘーゲルの『精神現象学』とともに荘子や新儒学者の王陽明、チャールズ・ディケンズと蒲松齢の『聊斎志異』、といった具合である。異なる文学の混在はのちに岡倉の仕事に多大な影響を与えることになる。
大学卒業後はアメリカから訪れるさまざまな学者や思想家の通訳をつとめ、その一人だった画家のジョン・ラファージには後年『茶の本』を献呈している。岡倉は美術批評を教え、文化遺産保存に関する政府の政策を指導した。アーネスト・フェノロサと協力して、貴族の館や仏閣の蔵に何世紀も隠されていた215,091点の美術品を査定したと報告されている。私的スキャンダルと公的衝突から政府と東京美術学校両方の職を追われたのち、ボストン美術館で働き、彼の尽力で美術館が収集した中国と日本の芸術品は目を見張るコレクションとなった。
こうして見ると単純な履歴のようだが、その奥には複雑なものが隠されている。岡倉覚三という人物は玉虫色で、つねに聞き手が誰であるかによって変わった。哲学者、詩人、通人、神秘家、学者、美術史家、熱心な国粋主義者、追放人――岡倉はこれらすべての役を演じた。話術の名人だったから、さまざまな伝記に記録された挿話はみなまるで昔話から借りてきたようだ。友達を相手にすると、とんでもないほら話をした。詩人ラビンドラナート・タゴールへの手紙に、かつて伯父が切腹し、介錯に首を切られるのを障子の隙間から垣間見た、と書いた。自分の子供たちには、朝鮮で「闇に二つの目をぎらつかせた」虎から命からがら逃げたさまを語った。すぐ真に受ける西洋人に向かうと、何百年も隠されていた聖なる仏像の覆いが解かれたときの体験を聞かせた。「突然、空は暗くなり、雷が鳴って、誰もが怯えました……ヘビやらネズミやらが現われ……」アメリカ人のソプラノ歌手クララ・ルイーズ・ケロッグは岡倉をニューヨークの催しに連れて行ったときのことをこう回想している。
実に楽しい夕べで、岡倉はレセプションの人気者だった。最初に紹介されたときは大学教授というだけだったのに、客のあいだを回り歩き始めるころには、いつのまにかアジアのプリンスで百万長者になっていた。彼は「おごそかな物腰」で振る舞い、正式な席にはゴージャスな着物を着て臨んだ。
東京美術学校で、岡倉は「馬上の貴公子」とあだ名されていた。だが、アメリカの日本人たちはときとして彼の変身ぶりを面白がりつつも軽蔑して眺めていた。「岡倉氏は自らを雪舟の傑作のごとき展示品に仕立て上げた」とワシントンの日本大使は書いた。
しかし自己紹介せよと迫られると、岡倉はごく手短に答えるのだった。「1863年生まれ、幼いころから古いものを好みました」
岡倉という人物はあれこれの要素が混じり合って成り立っているが、そのすべてを貫く一本の糸がある――彼は人間離れした才能のある書き手で、ほとんどどんな伝統、どんなジャンルでも書くことができたのだ。哀歌、告白、要請、抗議、賛歌、恋文、哲学の解釈から美術図録の無味乾燥な描写文に至るまで、彼は達人だった。そのうえ、こういった文体のどれでもパロディにすることができた。岡倉の最後の企画はオペレッタの作詞だったが、音楽がつかないうちに亡くなってしまった。『白狐』は子守歌あり、祈りあり、告白ありで、ジョルジュ・ビゼーかエリック・サティならどんな曲をつけただろうと想像を逞しくしてしまう。
岡倉のゲーム――役を演じること、機知に富んだ言葉を駆使すること――には深刻な意図が隠されていた。漫画じみた日本のイメージを突き崩そうとしていたのである。平均的なアメリカ人やヨーロッパ人は、アジア人といえば「蓮の花の香りを吸うだけで、いやそれどころかネズミやゴキブリを食って」生きており、「無益な狂信か……あるいはあさましい酒色に溺れる」傾向があると思い込んでいる、と岡倉は書いた。彼が英語を習った学校にいた19世紀の宣教師の一人は、自分がキリスト教に改宗させようとしていた日本人をこう平然と描写している。「気まぐれ、移り気、情にもろく、快楽を好む……道徳的には、どこの異教徒とも同じで、嘘つき、放埓、信頼できない」
教養ゆたかな審美家オスカー・ワイルドさえ、日本は冗談だと切り捨て、1891年のエッセイ『虚言の衰退』にこう書いた。
僕らが美術品の中に見るような日本人が実際に存在するなんて、本気で想像しているのか? もしそうなら、君は日本美術をまるで理解していない。こういう日本人というのは、個々の芸術家が自意識をもって故意に創り出したものだ……そう、日本そのものがまったくのこしらえ物だ。そんな国はない、そんな国民はいない。
“そんな国はない、そんな国民はいない”。
だが、この言葉がつけた傷は深くても、むしろ岡倉にとっては物語を書き換えるいい機会になった。日本が存在しないのなら、こしらえてやればいい。
岡倉は『茶の本』を個人と個人のあいだ、文化と文化のあいだ、国と国のあいだの誤解という病気を治す、彼ならではの薬とした。「東洋と西洋はたがいに認め合うことを必要としている」と岡倉は書いた。1905年のみならず、今日でもその通りだ。
冒頭の一文から、『茶の本』は後ろを向き、茶の起源に遡る。“茶は薬として始まった”。12世紀末、禅僧栄西は茶についての日本初の書物『喫茶養生記』(「茶を飲んで健康を保つ法」)を著わし、茶はすべての故障を癒す薬である、と書いた。茶は薬用で、疾患を治癒するものだという考えは徳川時代(1603—1867)を通して続いた。有名な茶の師、売茶翁はこの観点を『偈語(げご)』に表わしている。
人生は影
人は夢の中に生きている。
実体がないと知ったとき
あなたは「自分」と「他人」の区別を超える。
(夢幻生涯夢幻居 了知幻化絶親疎)
この粗末な家には
水すらないことも多いのですが
しかし霊薬をふるまいましょう
あなたを骨の髄まで変えるために。
(箪瓢屢空我家貧 換骨霊方売与人)
ノーマン・ワデルによる『偈語』の英訳を引用したパトリシア・グレアムの『賢人たちの茶――煎茶道』は、煎茶が日本文化に及ぼした影響を数世紀にわたって追っていく。煎茶は魂を浄化し、頭と体を清めると信じられていた。1762年に文人・医師の上田秋成はこう詠んだ。「腐敗した世界から逃れるのは無理でも/山の清水で茶を立てることはできる/そうして心を休めよう(濁りしと世は遁れねど谷水に茶を烹て心すますばかりぞ)」『茶の本』で岡倉は言う。今、治癒が必要なのは「東洋の問題を傲慢に無視してきた結果、人類が患っている重病」である。そこで持ち出した意外な解決法は、世界に遍在する茶だった。茶はどんな淹れ方でどこで飲もうと、茶碗の中身は同じチャノキ(camelia sinensis)の葉を煎じた飲み物だ。
隔たりは大きかった。19世紀のボストン、ロンドン、ベルリンやパリで岡倉が訪れたサロンや客間は、日本の茶室の簡素な空間とは雲泥の差があった。ヨーロッパの都市やアメリカ東海岸で茶といえば、ブルジョワや上流階級がのんびり愉しむもの、絹のドレスを着た婦人方が噂話に花を咲かせつつ、磁器のカップでちびちび飲む飲み物だった。アメリカの画家メアリー・カサットは、例えば『お茶』と題した作品で、紋織のクッションにもたれてくつろぐこの時代の女性たちの姿をとらえている。午後の陽光に色鮮やかな部屋がまぶしく輝く。立体感のある絹の壁紙の縞模様、朱色のテーブルクロス、完璧に揃った骨董の銀の茶道具。すべてが贅沢で、胸が悪くなる。
日本の伝統はこれとはまるで違い、焦点はこの世の無常、はかなさと死にある。茶は内戦の混乱の中で始まり、最初の茶人栄西から千利休を経て、徳川幕府最後の大老井伊直弼に至るまでのあいだに進化した。幕府が徐々に崩壊していったころ、井伊はのちのちまで感化を与えた名著の中で、茶がいかに国の平和維持に貢献しうるかを説いた。茶と戦――日本ではそのふたつが影響しあい、たがいの本質を形成した。16世紀末の戦国時代に、戦場で茶を飲む武将たちに千利休は仕えた。攻城戦のあいだに自作した茶席用花器は今も残っている。武士が身に帯びた刀を離すのは茶室の中だけ。刀はかならず茶室の外に置いておくものだった。学者ハーバート・E・プルチョフは「我々の知る限りで、茶室内で暗殺されたり毒を盛られた人はいない」と書いている。
こういう精神性の高い茶の概念を西洋に紹介しようとしても、最初はうまくいかなかった。イギリス人の芸術家W・ハーディング・スミスは、神聖なはずの茶筅が「アメリカの酒場でウィスキー・カクテルやらなにやら、元気づけドリンクを泡立てるのに使われている」と書いた。やはりヴィクトリア朝に日本を訪れた別の人物は茶の湯を「長ったらしくて無意味。一度以上見れば、耐えがたく単調」と描写した。
しかし、茶の起源と茶にまつわる文化を欧米人がこんなふうに誤解するのはいい機会とばかり、岡倉はどこへ行っても嬉々として先入観をぶち壊し、期待をひっくり返してみせた。
岡倉は『茶の本』を日本の読者ではなく、欧米人のために書いた。日本語ではなく、漢文の影響を受けた明晰な英語で書いた。本は7章からなり、うち4章は茶そのものについて、残る3章(「道教と禅教」、「芸術鑑賞」、「花」)は茶の湯に関わる美学を考察する。
本書の中でいちばん奇妙な部分は最終章(「茶の宗匠」)にある。千利休自殺の話だ。仕えていた戦国の武将豊臣秀吉に切腹を命じられた。利休がなぜ死ぬことになったのか、何世紀ものあいだ諸説紛々で、いまだに納得のいく説明は出ていない。利休自刃の話がここにあると読者が動揺するとして、この章全体を削除し、「花」で終わりにした版さえある。こうすれば、当たり障りのない本にはなるが、岡倉の構想を忠実に表わしたものとはいえない。
岡倉は利休の辞世の一部だけを翻訳して入れた(「吾這寶剣 祖佛共殺」岡倉の解釈では「歓迎だ、永遠の剣よ! 釈迦を貫き達磨も貫き、おまえはその道を切り開いてきた」)。だが、むき出しの感情のこもった冒頭の二節(「 人生七十 力囲希咄」「七十年の人生――ふん、それがどうした!」)は入れなかった。歴史学者村井則子が指摘したように、辞世をこのように編集することで、岡倉は利休を「卓越した芸術家」、生きた芸術作品、「人間ならではの脆さ」に揺るがない人物に変身させることができた。岡倉が描く利休は死の瞬間までまったく泰然としている。ほとんどプラトンの『パイドン』に登場するソクラテスのように、肉体と理性は魂を残し、いつのまにか消えていったのだ。『茶の本』は「顔に微笑を浮かべ、利休は未知の世界へ渡った」との一文で締めくくられる。
現代の読者は疑問に思うかもしれない。なぜ岡倉は理由のわからない自害という血なまぐさい話で『茶の本』を終わらせることにしたのだろう? 答えは「花」と「道教と禅教」、一読しただけでは茶とのつながりがほとんどないように思える章にあるのではないか。少なくとも19世紀の医師小川可進が「茶瓶の中身には天地の真髄がこもっている」と書いて以来、道教は茶の湯の中心にあった。岡倉にとって、道教は「“この世界にいかに存在すべきか”を説く。なぜなら、道教は現在、すなわち今ある我々自身を考え、我々の中でこそ、神は自然と出会い、昨日は明日から分かれる」からだ。岡倉の利休は死を目前にしたとき、「古いものの崩壊」に手を貸し、そのゆえに「再生が可能に」なった。利休の自害を描いた岡倉は、「(死によって)生から解放される」と、人間である意味について「より高い覚りが得られる」と示すことを意図していたのかもしれない。上に引用したのは花について書いた文の一部で、人生についての文ではないが、偉大な宗匠利休に関する岡倉の見方を表わしているともいえるだろう。「花」の章で使われる言葉と観念は「茶の宗匠」の章に流れ込み、その基盤を成している。
『茶の本』の日本語訳は1929年、岡倉の死から15年後に出版された。軍国主義者や極右の国粋主義者はすぐにこの本を我が物顔に利用し、日本帝国とそのアジア征服の正当化に使った。イリーナ・ホルカが示したように、このときの日本語訳はいくつか重要な概念を書き換えており、その結果、もとの英語版では茶の賛歌、茶をたしなむ者は「思いやりの心を磨く」と読めるものが、訳書では日本の伝統文化を武器として使うのだ、という呼びかけになってしまった。“茶教(teaism 茶の思想)”は岡倉の造語で、茶とは世界に通じるもの、現代の普遍的な芸術だということを暗に含めているが、これはもっと無表情な既存の言葉“茶の湯”と訳されている。東京美術学校の外には岡倉の銅像が建てられた。美術学校の学生たちはまもなく徴兵され、太平洋戦争で戦うことになる。銅像の岡倉は足元に目を落とし、そこには「アジアはひとつ」と金文字で刻まれた。哲学者・歴史学者の酒井直樹が書いたように、第二次世界大戦中、「“全体に溶け込む”といえば、その裏には自己を物理的に消し去るという意味が隠れているとすぐわかった」。利休はもう「茶の価値を体現した伝説の人物」というだけでなく、日本がアジアを征服するのは神授の権利なのだから当然だとするイデオロギーを支える一助となった。岡倉が描いた利休の死によって、日本国民は総力戦へ向かう心の準備をさせられたのである。
岡倉は第一次世界大戦前に死んだから、第二次世界大戦中、神風特攻隊員が死に向かって飛び立つ前に儀式として茶を飲んだことなど、想像しようにもできなかった。一方、今の私たちはあの特攻隊の飛行機が航空母艦に突っ込んで爆発する映像を一度でも見たら、頭から消し去ろうとしてもできない。自分の言葉が武器として使われることに岡倉がどう反応したか、それも私たちにはわかりようがない。親友だった詩人ラビンドラナート・タゴールは岡倉の遺産が悪用されていると批判し、「アジアはひとつ」とは「累々と重なる頭骸骨の塔を土台にして築き上げられた」統一だなどと、岡倉は決して意図していなかったと主張した。
『茶の本』が出版された当初、西欧の批評家たちはこれを政治的な論文というより、美意識についてのいっぷう変わった小冊子だと判断した。<ダイアル>誌は「意気高揚するメッセージは……今、貪欲を理想とする考えに支配され、下品な物質主義という流砂に呑み込まれる危険に瀕したこの20世紀の世界がぜひとも必要としているものだ」と称賛し、<カントリー・ライフ>誌は「茶が重厚な言葉で語られる価値のある論題になるとは、私たちには想像もつかなかった……最初から最後まで、実に興味深い内容が美しい文章で綴られている」と書いた。
日本の外の諸文化――アジアであれ、ヨーロッパであれ、アメリカであれ――を高く評価していた作家・思想家が、極端な国粋主義者として一部の人々に記憶されるようになったのは皮肉だ。しかも、個人を尊んだ人物の言葉が個人を消してしまう帝国の正当化に使われるとは。『茶の本』は人と人との理解を求める書で、征服を呼びかけるものではない。
私たちが『茶の本』に持ち込むのは、それぞれの思いだ。岡倉の言葉は鏡となって私たち自身の内面世界を映し出す。だから、世紀末アメリカの審美家たちは美術鑑賞や建築に利用しようと考えて『茶の本』を精読した。一方、日本の国粋主義者たちは同じ本の中に征服と帝国を称賛せよと挑む声を聞き取った。では、21世紀の私たちはこの一見わかりやすく、だが多義的な言葉で書かれた本をどう味わうべきだろうか。岡倉はこう書いた。「あることを言わずにおいた芸術品を見ると、そこに流れる考えを見る者自身が完成させる機会ができ、だから傑作には抗い難く注意が惹きつけられ、いつか自分もその一部になってしまうのだ。空白は、見る者がそこに入り込み、自分の審美的感情をもって埋め尽くすために存在する」。
岡倉もまた「想像が自由に戯れて隙間を埋める」ように、いろいろな言葉を言わずにおいた。
茶会に出席するとき、人は宝石類をすっかり外し、匂いの強い香水や石鹸は避け、地味な色のものを着る。既定の言葉少ない対話を別にすれば、茶を立て、飲む儀式はほぼ沈黙のうちに行なわれる。
岡倉の利休によれば、茶の席に招待された客すべては平等になる。男、女、アメリカ人、日本人、中国人、ヨーロッパ人、貴族、物乞い。主人と客を区別するものもない。
世界とのつながりを断ち切れ。自分が何を所有しているかを忘れ、自分が何者であるかさえ忘れよ。こうして次々と――アイデンティティも、物も、言語も――剝ぎ取っていくことが岡倉の気に入ったのかもしれない。長年、美術品を探してはカタログに記録するのが仕事で、機知に富んだ警句をその場その場で創り出せる人だったからこそだ。美術館、宮殿、競売場、すべてが消える。言葉は不必要になる。余計なものを捨て去ってはじめて「我々は物事の精髄と親しく交わることができる」と岡倉は書いた。
「角の蔵」も「覚りを得た者」も「天の中心」もない。茶室の中に「私」はない、と岡倉は語ったことがある。
“下も上も破壊される。後ろも前も破壊される。変化だけが唯一の永遠である”。
松下祥子、東京生まれ、英米文学翻訳家。上智大学およびカリフォルニア州立大学ノースリッジ校卒業。訳書にアガサ・クリスティー、ドロシー・L・セイヤーズ、レジナルド・ヒル、ロス・マクドナルド、ジャック・オコネル他多数。ハヤカワミステリマガジンにエッセイを長期連載中。現在イギリス、オックスフォード在住。